It's only a sick little game






浴室の扉を叩く音が聞こえたときには、風呂に浸かりはじめてから20分程経っていた。浴槽の蓋をテーブル代わりに、タオルを敷いた上に置いた本は下の角の方が水を吸収して少し湿っている。タオルを敷き直してもう一度本を置いたが、再び叩かれた扉の奥から、今度は母親が夕飯の時間を知らせるみたいにピリッとした声色で自分の名を呼ぶ声が聞こえ、フレデリックは返事をする代わりに浴槽から上がった。水音が聞こえたのかそれきり催促のノックや声が聞こえることはなくなった。
シャワーで体を流し、扉を開けると洗面所で待ち構えていたらしいフィリップが、フレデリックの携帯電話を片手にずいと突き出した。


「電話」

「ねぇ、一体なんだって俺をずぶ濡れのままにして風邪を引かせたいわけ? 電話よりもタオルが必要なんだけどな」


言いながらフレデリックはかけてあったバスタオルを手に取り、適当に体を拭いた。フィリップはなんだか気難しいような、怒っているような表情で洗面所に置いてある椅子に憤然と腰掛け、現場監督宛らにフレデリックの様子をじっと見ていた。
いくら兄弟とは言え、さすがにそんなにまじまじと視線を受けては裸のまま歩き回るわけにもいかないというか、やりづらい。フレデリックは照れるような素振りはなるたけ微塵にも見せず、素早く、だが自然な動作で用意しておいた下着を身に付けた。それは比較的派手な赤のボクサーパンツだったので、見られて恥ずべくような下着らしい下着ではなかったが、フィリップがそれでも物言いたげな凝視をはずさないものだから、グレーのベロア素材の緩いズボンも素早く履いた。それでようやく一心地がついた。
洗面台の横にフィリップによっていつのまにか置かれていた携帯を手に取ると、確かに着信履歴が何件か入っていた。
MISS、MISS、MISS、PHONE。


「……兄さん、勝手にでただろ」

「そりゃあんまりうるさいからさ。見たらエドガーからじゃないか。それでちょっと黙ってもらおうかってことで二言三言話したりはしたよ。だってそりゃお前だって長風呂だったけど、そんなにしつこく電話してくるのっておかしいじゃないか。俺が聞いただけで5回くらいは……」

「3回だよ。兄さんが出たのを含めると4回。あのさ、勝手に電話に出るなんて普通じゃないってわからない? 何か変なこと言わなかった?」

「普通じゃないだって! 言わせてもらえばな、お前が知っているにしろ知らないにしろ、普通じゃないのはあいつだよ。全く、ほんの1ミリの隙間だって見逃さないやつだよ、あいつは。ちなみにお前があいつを断固拒否してないとしたらお前もまともじゃないってことだ」

「なんのこと? 普通じゃないって、エドガー先輩が?」

「そうだよ。ああ、俺の悪い予感が当たってなきゃいいけど」

「悪いヨカン?」


フレデリックは無感情にそう繰り返して、顔を横に傾けて肩から流れ落ちた髪をバスタオルで揉み込んだ。目線は目の前の鏡に映る自分に固定されていた。ゆうに女性三人が並んで化粧ができるくらいの、大きな鏡である。左側では白い煙が漫然と揺れている。フィリップは煙草の灰をゴミ箱に落とし、ふぅ、と天井に向かって息を吐いた。


「お前、エドガーの気があるなんて素振りを真に受けちゃダメだよ。そりゃあ本気だとは思うよ、兄の俺が言うのもなんだけど、お前は綺麗な顔してるし、体も、まぁ男にしちゃちょっと頼りない気はするけど、背中のラインなんかいい形してるし、何より、はっとするほど白くて」

「わかった、わかったよ。頼むから人の体をそんな風に見ながら詳しく説明するのはやめてくれない」

「ま、とにかくさ、俺が言いたいのは、ある種の男達が見ればお前はすごく魅力的で、もっとね、近づいてみたいっていう欲求を起こさせるんだよ」


手にした煙草を気だるげな感じに咥え、フィリップは斜めに視線を落とした。まるでその辺りの空間では自分の言ってることが正しいんだと考えてるような、自信ありげな様子だった。


「別に俺、エドガー先輩が俺に気があるなんて思ってないし」

「へぇ、そう?」


フレデリックは鏡の上にかけられた時計をぼんやりみやった。時計の針は20時42分を指している。それから洗面台の横に置かれた黒い携帯電話に視線を移した。新たなメールも電話もきていない。それが期待外れだったのか、幾分当惑したような面持ちで長い睫毛を瞬かせ、だが思い切った様子で顔をあげると鏡に映るフィリップと目があった。フィリップは鏡のフレデリックに向かって煙を細く吐いた。


「いや、まあな、気はあるんだよ」

「……どっちだよ」

「だから、つまり……」

「体目的?」


フィリップは反射的にタバコを振って灰を落とした。フローリングの床に灰が細かく散らばってしまい、小さくうめいたがフレデリックはさして気にした様子はなく白くて丸い肩をなにとなく撫でていた。筋肉の形を確認しているような、触り心地を確かめているような丹念な撫で方だった。
フィリップは短くなったタバコをゴミ箱に投げて、新たにもう一本取り出し火をつけた。


「……あいつはそういう奴なんだって。俺はいいよ、俺はどちらかいうとあいつと似たタイプだし。ただお前は違うだろ。お前があいつと付き合ったら絶対痛い目見るのわかるんだよ」

「タバコ、やめなよ」

「なあ、エドガーは本気だよ。お前、喰われるぞ」

「わかった、わかった。警告ありがとう」


警告を全く警告として受け止めていないフレデリックに、フィリップはまだ何か言いかけたが、ドライヤーの音にかき消されると予測して何も言わなかった。ターボ状態のドライヤーの風は、フレデリックの髪の一本、二本をおしげなく空中に落とした。その髪の行き先をぼんやりと見届けて、フィリップは小さく舌打ちをした。


「ほんと、エドガーはやめとけよ。俺、言ったからな」


最後にそう言って、フィリップが洗面所からでていった後も、フレデリックは鏡に向けた視線を微動だにさせなかった。
だがフレデリックの青い瞳には入り乱れた思考が映る。


ドライヤーの音にまぎれて、電話が震えた。着信。
5回ほどバイブを鳴らせたままにしておいたら、少しずつ移動して床に落ちた。慌ててドライヤーを止めて携帯を拾い、もはやそれ以外の選択肢はないと観念して通話ボタンを押した。


「……はい」

『あ、フレデリック?』

「はい」

『いや、さっきフィリップが出たからさ。今平気?』


エドガーの話は先日フレデリックが貸した本のお礼と、その感想だった。話の内容や登場人物の魅力などよりも、文体や言葉の選び方に重点を置いたコテコテの純文学で、エドガーの好みではないだろうと思っていたが、思いの外興味を示したので貸したのだ。


『あれ、映画化されるって。知ってた?』

「あ、そうなんですか。知らなかった」

『3月くらいだって』


最近人気の若手俳優が主演らしい。配役が小説のイメージと合っているとか合っていないとか、あのラストシーンを映画でどうやって表現できるのか、などと薄っぺらな意見を交わしつつ、フレデリックは『一緒に見に行こう』という言葉がこの流れに組み込まれているはずだ、と考えた。それも、きっとその言葉を言うべきは自分だろう。

いや、言わせてやる。
なんだかんだ先程フィリップに言われたことを気にしていたフレデリックは、子供っぽい意地を見せたがそれも数秒で強制終了させられることとなった。


「そうそう、明日去年の期末の問題渡すよ。運よく見つかったから」


話題は唐突に切り替えられた。半分は後悔し、半分はほっとしたのも事実である。


「それ、すごく助かります」

「いーよ。どうせ捨てるものだし」

「ロックウェルにも見せてあげなきゃ」


鋼鉄のような、無機質な沈黙が落ちた。なぜそんな言葉を口走ったのか分からなかった。うっかりボタンを押して、音が出てしまった。そんな感じである。
やや乾燥した響きが返る。


『ロックウェルと、仲良いんだ』

「まあ、別に……普通ですけど」

『普通、ね』


『うん、普通』なんて答えるのもあまりに馬鹿らしい気がして、何も言わなかった。無意味な沈黙が右耳の向こう側に広がる。まだ半乾きの髪から、水滴が一粒落ちて青いバスマットに染みた。ドライヤーの途中だったことを思い出した。鏡に映る自分に向かって、思い切り顔をしかめて見せた。特に何か意図や思いがあってそうしたわけではなく、試しに顔の筋肉を動かしてみた、といった風である。


規則正しい時計の秒針の音がやけに耳についた。続く沈黙の責任を感じながら、我ながら非生産的、非建設的なことを口走ったものだ、とどこか客観的に自分の言動を見つめなおし、それから今後の話の展開を切り開く役目を請け負うことにした。


「兄さん、何か言ってませんでした?」

『ん? いや、別に。今度飲もうって言われただけだよ』


壁の向こうのリビングを睨んだ。聞こえてくるテレビの音と、それに対する軽快な笑い声に腹立ちつつ、口の端がわずかに綻んだ。やはりフィリップはフィリップなのだ、と再確認した。エドガーと自分のことにしても、本気で心配しているというより、単に首を突っ込みたいだけなのである。


「……何回も電話くれたみたいで」

『ああ、悪いな。特に急ぎの用があった訳じゃないんだが』

「なんだ。何かあったかと思いました」

『どうしても声が聞きたい時ってない?』


弾丸で胸に穴を開けられた気がした。様々に用意していた言葉やフレーズが四散して立ち消えた。できることなら聞き直したい思いとともに、フレデリックは早く電話を切りたい思いでいっぱいだった。
電話の向こう側で、エドガーがフッと笑った気がした。


『明日、教室行くわ。昼休み、いろよ』

「……昼休み、うん」

『会いたいしね』

「……もう、いいですよ」


拙いながらもなんとか返事を絞りだし、また明日、と挨拶をして電話が切れた。通信終了を告げる発信音を鳴らす携帯を、会話終了後もしばらく耳にあてていた。その冷たい機械音がなんとなく頭を冷静にさせてくれる気がした。


『お前、食われるぞ』


フィリップの声が頭を巡る。

食われる? うん、それで、何か問題がある?


ふと寒気を感じ、まだTシャツも着ていなかったことに気がついた。髪も乾き切っていない。ドライヤーを手に取り、だがその前に、化粧水、トリートメント、歯磨き粉、洗顔フォームなど、キャビネットの棚に載せられたそれらの乱雑な順番がどうしても気になった。大きさ別に並べてから、やはり、と思い直して使う順番に並べ替えなおした。


「寒い……」


誰かにこの声を拾ってほしいという希望が込められたような声色だったが、もちろん洗面所には彼一人しかいないし、フィリップはまだリビングにいる。まだ熱を持った携帯を洗面所に置いたまま、彼はTシャツを求めてリビングに向かった。兄を呼ぶ声には弟特有の気ままで奔放な響きがあった。